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二宿六峠小話

■駿府にあった南蛮寺〔キリシタンの教会〕

 徳川家康の駿府大御所時代は、駿府には江戸よりも早くキリシタンの教会〔南蛮寺〕が創られ庶民と武士階級の二つの南蛮寺があった。武士階級の教会は草深辺りといわれているが正確な場所はわからない。歴史に名を残した駿府城大奥の侍女たちも、きっとその教会に通っていたことだろう。一方、庶民が通った南蛮寺は、現在の静岡県防災センターがある安倍川町公園に「この附近駿府キリシタン聖堂跡」の石碑が立っている。
天下人となった家康の絶頂期といえば、それは駿府大御所時代であったが、この時の駿府は事実上の日本の首都として多くの南蛮人が家康に接近していた。そんな中、駿府城大奥の侍女たちも教会に通っていたことがスペイン人の記録に詳しく登場する。中でも家康に謁見したスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノの記録に、大奥の三人の侍女の実名で登場する、それは洗礼名であるがジュリア・クララ・ルシアの三人であった。
ところが慶長16年〔1611〕、家康の周辺の人物まで信者として不敵な行動を取っていたことが露見した。このため家康は「最早限界」として、駿府から全国に見せしめのためキリシタン信徒迫害の嵐が巻き起こった。これが1613年に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」といわれ、駿府キリシタン信徒に決定的打撃となった。
この年に家康に会いに来たイギリス国王使節のジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川の河原でむごたらしい信者の死体の山を目撃していた。江戸時代の悲しいキリシタンの迫害は、家康の膝元の駿府からはじまったのである。その唯一の史跡として、安倍川町公園に前述の石碑として残っている。教会の跡地附近は、この事件の跡に大きな遊廓となっていった。
テーマ:徳川家康(大御所)に関わる小話
 
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