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二宿六峠小話

■シーボルトが植物採集した宇津ノ谷峠

  知名度・認知度   ★☆☆☆☆(星1つ)

  著名なジーボルトも宇津ノ谷を通過し、ここで植物採集をしていた。彼は世界的な博物学者であるばかりか、日本研究家としても知られている。シーボルトの来日は文政6年(1823)に憧れの地日本の土をはじめて踏んだ。医師であった彼は、長崎の郊外で医学塾を開設し、また日本人に植物学を教えていた。彼の門下生の一人が高野長英である。
彼は閉ざされた鎖国下の日本学徒に計り知れない影響を与えたばかりか、世界中に未知の国日本を紹介した人物でもある。彼は日本に関する資料を収集し、ドイツに帰国してから『日本』・『日本動物誌』・『日本植物誌』などを刊行しヨーロッパに日本ブームを引き起こした歴史上の人物である。
『江戸参府紀行』から、シーボルトが宇津ノ谷で動植物を調査した記述を見てみよう。
「今や〔東海道の〕路は次第に狭くなり、険しい密林に被われたる山にかかる。ここを宇津谷峠という。それ以来、私の知りたかった希なる花弁はここ〔宇津ノ谷〕に豊にして沢山あった。山胡椒・青筴葉・鳥樟及び、これまで見たこともない種類は私の研究材料となった。
狸の一別種もここで入手した。またヨーロッパとはかなり違ふ鼠を捕へた。11時近く丸子に達し、昼食の後に府中の方へ旅を続ける。安倍川村の脇でも、ここでも大井川同様に安倍川を漕ぎ渡る。今日は昨日よりも寒し(華氏28度摂氏ではマイナス4度)。私はこの鍛練したる人々が、寒さのために戦慄する姿を見て驚いた」(『異国叢書』より)。
シーボルトは、この宇津ノ谷で珍しい植物を採集したのである。
テーマ:その他

■宇津ノ谷峠のみどころ

 宇津ノ谷峠は静岡市と岡部町の山境にあり、古くから人々の往来した峠としての役割を担って今日に至っている。峠のみどころは、静岡側と岡部側の登り口、それに峠に文化財や史跡が集中している。
静岡側(宇津ノ谷峠入口)

  • 宇津ノ谷集落(急な坂道に階段状に家屋が建てられ、江戸期の景観が残されている)
    集落は慶長19年(1614)大坂冬の陣にあたって関所が設けられ、江戸や駿府などで発行された交通手形を確認したという。ただし飛脚や百姓は自由に通行できた。関所の置かれた場所がどこなのか不明。この集落は丸子宿と岡部宿の中間にあり、間(あいの)宿(しゅく)と呼ばれて旅人の宿泊は出来ないが休憩 場所にのみ使われていた。このため茶店が多く、十団子や山芋の田楽が売られていたことが、『東 海道名所記』や「浮世絵」などから知られている。家数45軒、家毎に十団子を売る店があった。
    芭蕉の門人(許六)が、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と詠んでいる。
  • 御羽織茶屋(おはおりちゃや)(豊臣秀吉から与えられた紙子(かみこ)の羽織を所蔵)したことから屋号となった茶店(ちゃみせ)。その他、「江戸屋・車屋・伊勢屋・丸子屋・寿ヾ家・清水屋・十一屋・松屋・長兵衛金・角屋」などがあり、江戸時代の景観が髣髴として残る集落。
  • 慶竜寺(けいりゅうじ)(慶龍寺とも)
    宇津ノ谷峠の地蔵堂は明治44年にこの寺に移された。毎年8月23日〜24日の地蔵盆には 十団子が参詣者に施される。厄除や交通安全などのお守りとなる。
  • 明治のトンネル(地蔵堂の下を走るトンネル、明治7年に着手し明治9年に完成し、50年間銭取トンネルとして有料道路であった)。その後三たび造り変えるられている。
    うつの山はげしき坂もいまよりはこころやすくもとほるほら道(明治天皇)
    今年よりやがてにほはん宇津の屋の宇津のちまたの山桜花(静岡県令大迫貞清)
  • 蔦の細道(宇津ノ谷集落とは別の古代の道。宇津ノ谷集落の東海道とは別の古道。『伊勢物語』の在原業平の宇津ノ谷峠越えに登場する古道)
宇津ノ谷峠(岡部宿と丸子宿の中間にある峠で、宇津ノ谷集落の少し上にある)
  • 地蔵堂跡(峠の地蔵として有名、この地蔵堂は歌舞伎・文学・故事などに登場する著名な場所)
岡部側(宇津ノ谷峠入口)
  • 羅径記(らけいき)羅径とは「蔦の細道」の意味、駿府の名代官で学者の羽倉外記(はくらげき)(1790-1862)が撰文。 書は江戸時代の名書家市河(いちかわ)米(べい)庵(あん)(1779−1858)で、文政13年(1830)の建立。
  • 鼻取地蔵

■丸子宿と岡部宿

丸子宿 鎌倉時代に源頼朝の奥方が宇津ノ谷峠で山賊に出会い、財宝や装束を奪略された。その後街道の安全のため、夜警が組織され宿場の原型が生まれたという。江戸時代になって53次の宿場となる。
岡部宿 鎌倉時代の岡部は、御厨(みくりや)の名で知られる伊勢神宮領であった。鎌倉幕府の交通政策によって岡部宿(今宿)が誕生。江戸初期の岡部宿は、今宿に対して新宿が設けられたため、新旧の宿場が対立していたことから、1年遅れの慶長7年(1602)現在地に東海道53次の21番目との新宿として正式に加わる。

 

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